管理人は超つらいよ   
マンション管理最前線

「ボランティア」の定義を誤解していませんか?
無償 とは限らないのです
「管理組合役員はボランティア???」

(長文です。ごめんね)





2016/6 2017/5追補 2022


マンション管理士として活躍している「村上さんのブログ」最新記事「2016-06-10 管理組合の役員はボランティアで充分な仕事なのか? 」を読んで「ボランティア」について思ったこと。

実は私は阪神大震災のあと、数年間、サラリーマンをしながらボランティア活動をしていたことがあります。この時に、所属していた団体の中で、「ボランティアというものの定義」についてメンバー同士で揉めたことがあり、それが原因でボランティア活動をやめました。

ポイントは
「無償性」という問題です。

もともとの「ボランティア」と言う言葉の起源はラテン語で「意思」という意味らしいです。そこから派生して、英語では「
志願兵」という意味になっています。
この志願兵は、けして「無償」ということではありません。徴兵制がない日本では、自衛隊員は全員「私はお国のために命を投げ出して働きたい」という自分の意志で自衛隊員になった「志願兵」ですが、無償で働いている隊員など一人もいません。みんな、いい給料をもらっています。食事も宿舎も支給されています。
まあ、今は有事ではないので、「お国のために」という名目ではあるものの、実際は、「安定している」「給料がいい」「死ぬことはないだろうという理由で志願している人がほとんどでしょう。そういう連中なので、「実弾と空砲の区別もつかない」「普通の小学2年生にまかれる(北海道の大和君)」「エリート自衛官が強姦」・・・・という不祥事が目白おしなのでしょう。

アメリカの西部劇映画の中に、「3時10分、決断のとき」
(2007年 主演 ラッセル・クロウ クリスチャン・ベール)というのがあります。これは、1957年の「決断の3時10分」という映画のリメイク作品で、原題はどちらも「3:10 to Yuma」です。映画としてはリメイク版のほうがはるかに素晴らしいと思います。ただ、昔のものは、フランキー・レインの歌う主題歌がなかなか秀逸です。
さて、この映画の中で、「囚人を駅まで護送する仕事」というのが出てきます。鉄道会社の重役が「この仕事を誰かやってくれないか?」と募る際に使われたのが、
「200ドル出すから、誰かボランティアはいないか?」(もちろん、映画では英語で言ってます)という言葉です。
今の日本で使われている「ボランティア」の感覚からすると、「え?」って思うかもしれませんが、本来の英語では、これが正しい使い方です。

というわけで、本来の「ボランティア」という言葉の意味には「無償性」というのは含まれません。

あくまでも「自分で志願する」という「自分の意志で」ということが「ボランティア」なのです。そして、「国のために」とか「地域のために」といった「誰かのために」という要素が加わったものが、本来の「ボランティア」となります。

昨今、テレビドラマでは「下町ロケット」とか企業ものが多いですが、企業の中でも、通常の職種ではなく、「今度、新しいプロジェクトを立ち上げるので、誰かこれに参加してくれないか? 強制はしない」といったことがあると思いますが、これに参加するのは「ボランティア」になります。会社員として給料をもらっていても、「ボランティア」です。会社の強制ではなく、自分の意志で、その新プロジェクトに参加すること、それがボランティアなのです。

今、「少年が犯罪を犯した際、刑務所に入れるのではなく、ボランティア活動を課すのが良い」なんていう意見がありますが、「課す」ようなものは「ボランティア」ではありません。とんでもない勘違いです。このように、日本における「ボランティア」は、「自分の意志で」という、本来の意味に代わって、なぜか「無償性」だけが一人歩きして、「無償=ボランティア」というふうに変わってしまいました。

私の勤務マンションでも、「管理人さん、夏のお祭りの手伝い、ボランティアでやってくれないかな?」と役員が私に頼んできたりします。なんなんでしょうね、この日本語? 要するに「ただ働きしろ」っていう命令なんですけど。

今は、「言葉を大事にする」はずのNHKのニュースでも、「ボランティア」を「無償」という意味の言葉として使うようになってしまいました。こういう「誤訳」に市民権を与えるのはやめて欲しいです。NHK、ほんとだめだなあ。安倍政権の犬みたいな放送しかしないし。


さて、当時、私が所属していたボランティアグループ(福祉関係。老人ホームとか独居老人の家などにいって活動をしていた)は、その会長は、「ボランティア」の本当の定義がわかっている人でした。私は、ここに参加するにあたり、その会長と話をして、「私は報酬は求めませんが、交通費のかかる現場に行く際は交通費を支給していただきたいし、何か経費のかかる活動をする際は、その経費は会で負担して欲しい」という条件を出しました。(老人ホームで紙芝居とかをしますが、その画材とか買うのは会でやってほしいという意味です) 会長は「当然です。経費は会のほうで負担します。そういうことで市役所からも補助金を受けていますし。うちでは、メンバーの皆さんに持ち出しになるようなことはさせません」と返答したため、「それなら参加します」ということで、そのグループに入りました。
そういうわけで、必要経費は会のほうで出してくれますし、長時間に及ぶ活動の場合は、「お弁当も支給される」というものでした。





この会には、そういう「会長」の思想に賛同する人ばかりが集まっていたので、それで特に問題はなかったのですが、そのあとに入ってきた新メンバーの中で、この「無償性」にこだわる人がいて、その人が押しの強い人で、他のメンバーに対しても、「ボランティアとは無償という意味だ」「一切、お金をもらってはいけない」と主張し、これが会の中の「和」を乱し、トラブルのもとになりました。

しかし、ボランティア活動にはたとえ「労働」を無償でやったとしても、前述のとおり、その他に「
経費」がかかります。

現場までいく「交通費」や「物品購入費」や「携帯電話の通話料(当時は高額だった)」や「事務経費」などなど。さすがに「チャイナ服じゃないと仕事ができないので、チャイナ服を買って欲しい」「会議をするので、三日月ホテルに宿泊したい」「腹が減ったのでサンドイッチを120人分欲しい」なんていう、どこかの都知事みたいことは要求しませんが、大工仕事をする際に「軍手は必要」とか「ヘルメットがあったほうが安全」とか、使う道具にもお金はかかります。

「無償こそ命!」の彼らは、こういったものに関しても「お金をもらうのはボランティアではない」と主張し、要するに、全部「自腹で出していた」のです。(このグループは、「元公務員」とか「元一部上場企業の社員」とかで、要するに、高額な年金をもらっているお金持ちでした)

このボランティア組織は、もともと自治体側がお膳立てして作った組織で、ボランティア団体として市に登録されていて、市から「補助金」が出ていて、そういう「運営経費」にあてられていたのですが、彼らは、「一切お金をもらってはいけない」「補助金を返上しよう」と、なんか、「自腹で払うことに喜びを感じる」「持ち出しこそがボランティアだ」みたいなポリシーでした。(ドMか??)
はては、独居老人の家の中で大工仕事をした御礼に「おまんじゅう」をもらってきたメンバーに対して、「謝礼をもらってきてはいけない。返しに行け」とか言い出す始末です。

これに対して、私たちは、「労働に対する報酬はゼロでもいい。しかし、経費までは出せない。そんなにお金持ちではない。自腹はおかしい。そんなことをしていたら、メンバーが集まらない。それでは活動が継続できない」として反対しました。実際、グループに入ってきた人たちが、「無償のうえに、自腹も切らないといけないの? だったら抜けます」と出ていく人が多かったのです。無償派の人たちは、そういう人たちに対して、「そんな不謹慎な考えの奴は来なくてけっこう。出て行け」とか言ってました。せっかく、来てくれたのに、なんというもったいないことをするのでしょうか?



こうやって、メンバー同士の意見が衝突し、内部分裂が起こり、居心地が悪くなったため、「気分を悪くしてまでボランティア活動はしたくない」と、私は脱退しました。なお、その団体はその後すぐに解散したそうです。

ですから、私としては、
今の日本の「ボランティア」の「定義」が、「無償性」オンリーということになってしまっていることに、大きな疑問を感じるのです。

そして、その結果、おおもとの意味である「自由意志」がどこかに行ってしまいました。本末転倒というか主客転倒になってしまいました。ですから、今の「ボランティア」は、「自分の意志」が介在しないボランティアがいっぱいあります。

一番最初に紹介した、村上さんの今回のブログのテーマである「管理組合役員」は、実際は、自分から志願する人(つまり、「立候補」)はごくわずかで、たいていが「輪番制で回ってきたから仕方なく」という性質のものであり、言わば「強制徴兵制度」みたいなもので、「志願兵」ではありません。

地元町内会の役員なんかも、同様で、「このマンションから2名出さないといけないので、あなた、やってほしい」と、半強制的にやらされるものです。

このように、「自分の意志に反するもの」であっても、「無償」ということで、「ボランティア」と考える人が多いのです。

本来の意味からすれば、これは誤用なんですが、今の日本では、この「誤用」のほうが「本物」になってしまっています。



むしろ、当地区の町内会の役員なんか、実は、高齢役員たちが町内会費を私物化しており、そのお金でしょっちゅう宴会を開いて「飲み食い」しています。(会計報告の名目では「会議」になっています。舛添とやってることは同じ) これが「無償活動なのか?」と私は疑問です。

私が在籍したボランティアグループでは、市のほうで「いろいろなボランティアグループを集めて意見交換するシンポジウム」みたいなものが開催された際に、私も、その「無償こそ命」の人も参加したのですが、シンポジウムのあとには懇親会が開催され、そこでは、ホテルのケータリングみたいな豪華な「飲食」が提供され、私はちょっと驚きました。でも、その「無償こそ命」の人は、「いいんだ、いいんだ、こういうもんはご馳走になるもんだ」と言って、バクバク食べているのです。もちろん、お金など払わずに。お酒も飲んでました。
これを見て、「なんなんだ、こいつは?」と驚いた記憶があります。
(あとでわかったんですが、この集まりも、市役所の福祉予算が、当初の予定よりも余ったため、予算消化のために急遽開催されたものでした。消化しないと、次年度の予算が削られるために、役所というのはそういうことをするのです)



最初に紹介したブログの中で村上さんが書いている、

<管理組合の役員は「ボランティアで片付けられるレベルの仕事ではない」という意識改革が必要だと思います。>

という記述は「ボランティア=無償」という意味で書いていて、「自分の意思で参加する」という、本来の「ボランティア」の意味を忘れてしまっています。これは、
完全に間違いであり、本来は、「ぜひ、やる気のあるボランティアの皆さんに集まってもらい、積極的に活動していただきたい。そして、ある程度の報酬ははらうべきです」と書くべきものだったと思います。マンション管理士って、難関資格なのだから、もっと頭のいい人がなるものだと思ってましたが、こういう「無知」は困ります。

今、熊本の大地震で、また、マスコミが「ボランティア活動」と言う言葉を多用していますが、いずれも、「無償性」を前面に出して使っていて、上述の通り、「無償」にこだわった人たちにひどい目にあわされた経験のある私は、それにすごく違和感を感じます。

ですから、私個人は、「ボランティア」という用語は使用せずに、
「無償奉仕活動」と言っています。


日本ではこのような状況なので「ボランティア」をヤホーで検索すると、
「無償性が核です」とか書いてあることが多く、「アホだな、こいつら」と思って読んでいます。

そんな中、
https://careerpark.jp/77269
このサイトは、多少まともなこと書いていると思います。

また、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1419807704

この知恵袋の中で書かれている、

ボランティアとは自発的な自由意志によって、何らかの社会奉仕活動をすることを指す言葉であって、有償無償は問われません。日本ではどうもボランティアというと、「手弁当で無料奉仕」のような発想ばかりが先行していますが、ヨーロッパでは有償ボランティアは全然珍しくありませんし、ボランティア=無料だという発想もほとんどなく、寧ろ労働してもらったらお金を払うのは当たり前という感覚の方が強く、それがボランティアであると、社会的に広く認知されています。

有償ボランティアの賃金相場は、大体において「それだけで生計を立てるには、ぎりぎりor低くすぎ」ですから、アルバイト感覚ではなく、あくまでも人の役に立とうというサービス精神に根ざさないと、労働に対する対価だけ考えたら、バカらしくてとてもやっていられないものです。それに、そのような需要がある場所というのは、大体において人に仕事を頼みたいが重労働でやり手がいなかったり、標準的なアルバイト料を払うほどの資金が用意できない場合が多く、割りに合わない低賃金であることを承知の上で、それでも困った人の為に一肌脱いであげましょうという、善意に基づいて仕事に従事してくれる訳ですよね。
ですから、私は有償ボランティアもれっきとしたボランティア活動だと思いますし、対価を受け取ること渡すことに対して、何ら恥じるべき点はないと思います。


という回答に、私は全面的に賛成です。   8888888888

実際、当市にある某「福祉ボランティア」のグループでは、「1時間の活動につき、500円の報酬を払う」(市からも補助金をもらっているのだが、サービスの利用者からも利用料を徴収して、それを活動メンバーに渡す)ということにしているところがあります。
これも、「そんなのはボランティアではない!」という批判にさらされているようですが、多少なりとも報酬を払うことにより、そのボランティアグループの活動が活発になり、長く継続されることは、多くの困っている人を救うことになります。
また、サービスを受ける側も、
「無料じゃ申し訳ないです」という「気兼ね」をすることがなくなり、依頼をしやすくなります。
時給換算500円程度の、要するに「最低賃金を下回る報酬」(労働として考えると違法になるもの)というのは、ボランティアだと私は考えます。


実際に、ボランティアの現場にいた私の経験上、「サービスを受ける側の人の気苦労」というのは大きく、「こんなにしてもらって、一銭も払わないなんて、申し訳ないよ。こっちが心苦しいから、とにかく、1000円だけでももらってよ」と、千円札を無理やり渡そうとした人はいっぱいいました。「お金はもらえないんです」と断ると、「それじゃあ・・・」と、茶箪笥の中をあれこれ探して、お菓子とか取り出して、「たいしたもんじゃないけど、頼むから、これだけでも、もらってちょうだい。気持ちだから!」」と必死に手渡そうとする人もいました。「じゃあ、メンバーでわけていただきます。ありがとうございます」と言ってもらってきたものです。でも、これも、事務所に戻って、みんなに披露すると、上述の「無償性一派」が「なんで、もらってきたんだ」と非難しました。
また、「急いで次の現場にいかなくてもいい」という、多少暇な時というのは、「ねえ、お茶を入れるからちょっとゆっくりしていってよ」と引きとめられることもよくあります。(このへんは、管理人業務と似ている) これも、「愚痴を聞いてあげる」「話相手になってあげる」という奉仕活動であり、他人と十数分でも気兼ねなく話ができるだけでも、その人の精神衛生に多大な効果があったりするものです。
でも、「お茶一杯」ご馳走になっただけでも、「それはボランティアではない」とか文句をつけるバカがいます。

こういう、無性に「無償にこだわる」人たちは、極論すると、「相手が喜ぶこと」よりも、「無償というものに自分が酔っているだけ」、つまりは「自己満足に浸っているだけ」と私は思うのです。私は、「サービスを受ける側が一番喜ぶ方法」を考えるのが大事だと思います。間違っているでしょうか??

というわけで、話を「管理組合役員」のほうへ転換しますが、私は、「ちゃんと理事会に参加して、自分の役職の仕事をしている管理組合役員」に対しては、「毎月2000円の役員報酬を払う」なんていうのは、「いいことだ」と思っています。






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